籟根海と『姫とスパイと風の声と』の由来について
ドイツ系アメリカ人の読書家のプログラマーと、物語を紡ぐことが大得意なインド人の教授の間にマサチューセッツで生まれ、人生最初の五年間は物語に囲まれて育った。冒険心のある両親は、双子を授かったとほぼ同時に日本への転移を決心した。東京と私は五年間分かち合えずに揉めあったが、更に数年後には東京は自分の帰り場所となっていた。読書愛を知ったのも、明らかにハリーポッターや少女探偵ナンシーが元となった小説を書き始めたのも、本を愛してやまない心を宥める唯一の術となった二次小説の世界を見つけたのも、好きな本の内容とは違った物語を思い浮かび小学校用の脚本にして書いたのも、全て東京でのことだった。ひたすら書くことを愛してやまなかったので小説も脚本も詩も歌詞も書いていた。歌詞として書いていた作品がいくつかの詩となって、そして小説となったものがあった。これが『姫とスパイと風の声と』の最初の姿だった。
アメリカのバッファローで数年間母方の祖父母と暮らし、カトリックの女子高校に通った。最初の一学期は英語を使い慣れてなかったため苦労が絶えなかった中、英語の授業だけは、読書好きだったので問題なかった。9年生の間は英語の先生に背中を押され、よく時間を見つけては物語を書いていた。『姫とスパイと風の声と』は子供向けの小説の形となり、ノート一冊分登場人物の説明や地図で埋め尽くされていた。だが10年生に上がると、英語の授業は身から魂を抜かれるような悪夢となり、その一年が終わった頃にはオリジナル物語を書く気力は失せていた。『姫とスパイと風の声と』の当時の姿にさえ失望した。親のいるインドのハイデラバードに引っ越した頃には、二次小説以外書く気などなかった。
ハイデラバードで不意に翻訳の世界に飛び込んだ。上橋菜穂子の守り人シリーズを母に読ませたくて、7作目まで全て半年で英訳した。それが楽しくてエヴァ=イボットソンの本も数冊和訳し始めた。そして、愚かにも上橋先生に守り人シリーズの英訳を出版、もしくはネットで公開したいと許可を求めた。憧れていた著者に拒否されたことに失望し、翻訳家を目指していた心が一瞬で冷めた。苦しさのあまり、もう二度と小説の翻訳などできないだろうと思った。
翻訳家への道を踏み外した私はアラスカ大学フェアバンクス校に入学した。北方論理学部に入り、マイナーとして北極技術と呼ばれた、サバイバルや応急処置などに基づいた分野を学んだ。そして同時に生物学部と心理学部で研究を行い、音楽の授業もマイナーにできる程たくさん受けた。授業に必要なもの以外殆ど書かなかった。書くことがあっても、それは二次小説か、もしくは言葉の実験のような不思議な作文のように連ねられた文章だけだった。だが『姫とスパイと風の声と』は相変わらず頭の片隅にあり、心の中で書き換えられていた。
イタリアのトレント大学院で認知神経学部に入学した時、物書きを仕事にしようとなど考えたことはなかった。だが、イタリアで出会ったのは、ひたすら書いて書いて書き続けたい自分。二次小説もしばらく書き続けていたが、二次小説でさえもはや無理に他人のキャラクターを書き換えてまで自分の世界に移していたことに気づき、再び自分の生み出す世界に専念することにした。そうして書いた短編小説がいくつか短編集やネット雑誌に載せられた。
だが未だに物書きをキャリアにしようと考えることはなく、ナミビアでイルカ研究グループで研修生になった。修士課程の二年目をドイツのオスナブリュック大学院で過ごし、両方の大学院から卒業できるプログラムにも入った。ナミビアのイルカ研究が大好きだったことからもう一度ナミビアに戻り、その研究を元に修論を書いた。その間も時間を見つけては書いていた中で、初めて『姫とスパイと風の声と』を書き上げた。数ヶ月後、それを読み返し、3分の2は必要ないと思い、残った3分の1を伸ばすように書き直し、再び書き上げた。そのさらに一ヶ月後に『氷と炎の歌』を読み、自分の物語の語り方を考え直し、一から書き直すことにした。そしてまた書き上げた。
修士課程を卒業し、分子神経学の研究者になった。世の中の畝りに人生を乗っ取られ、三年間書きたくともほぼ書けなかった。畝りの向こう側に辿り着いていた時には無職で、二十年老けたかのように考え方が変わっていた。これからどうしようと迷う中で、一つだけはっきりした確信があった。この先何があっても、書くことを優先するという決心だった。
『姫とスパイと風の声と』をもう一度手に取り、また見直しては書き直すことを数回繰り返した。書き直す度に書き変える内容が確実に減っていて、本当に書き終わったのだと気付いた。無論、いつでも他にも色々な物語を書いてきたし、これからも書き続ける。だがこの一つの物語が何よりも生まれたい、もう生まれて良いのだと頭の中をかき回している。だから、生み出す。